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大山崎町の史跡

乙訓地域(向日市・大山崎町・長岡京市)は、古くから人々が生活を営み、交通の要衝として栄えてきたため、長い歴史の中で育まれた多くの史跡が残されています。

 

大山崎町は、三川合流する川と天王山に挟まれ、最も狭いところで約200mという地形で、古代から歴史の舞台となってきました。

大山崎町の史跡を写真で紹介いたします。

 

No.1 離宮八幡宮

No.2 妙喜庵

No.3 大念寺

No.4 聴竹居

No.5 宝積寺

No.6 観音寺

No.7 山崎院跡

No.8 陶板絵図「秀吉の道」①

No.9 陶板絵図「秀吉の道」②

No.10 陶板絵図「秀吉の道」③④

No.11 陶板絵図「秀吉の道」⑤

No.12 陶板絵図「秀吉の道」⑥ 

 

No.13 旗立松展望台

No.14 十七烈士の墓

No.15 酒解神社

No.16 天王山山頂・山崎城跡

No.17 大山崎町歴史資料館

No.18 霊泉連歌講跡碑 山崎宗鑑句碑

No.19 史跡大山崎瓦窯跡公園

No.20 小倉神社

No.21 円明教寺

No.22 境野1号墳(明智光秀本陣跡)

No.23 天王山夢ほたる公園

No.24 大山崎の東黒門跡

 


No.1 離宮八幡宮

859年に大和大安寺の僧、行教が豊前国宇佐から八幡神を嵯峨天皇が営んだ河陽離宮に分祀したことに始まります。

平安時代末に神官が長木という搾油機を考案し荏胡麻油生産が活発化し、神社は油座の会所となりました。

今も油の神様として厚い信仰を集めています。

No.2 妙喜庵

俳諧の祖、山崎宗鑑が室町時代後期に庵を結んだ跡を東福寺の春嶽禅師が寺に改めました。

山崎合戦で勝利した羽柴秀吉は、天王山一帯に城を築き、千利休を城下に住まわせました。

利休屋敷に設けられた小間の茶室(待庵)は 数寄屋作りの原点と言われます。

No.3 大念寺

室町時代後期に八幡宮の社家であった井尻長助が浄土宗知恩院の第27世徳誉光然を迎え開山しました。

光然は正親町天皇の生母吉徳門院を妹にもち、その背景から大念寺は1558年に天皇から綸旨を賜り、勅願寺に指定されました。

寺宝に重要文化財の阿弥陀如来立像があります。



No.4 聴竹居

聴竹居は京都帝国大学で建築学の教鞭をとった藤井厚二が、1928年に建てた環境共生住宅の先駆けです。

藤井は自らの設計で自邸を建てました。

「日本のモダニズム建築20選」にも選ばれた住宅で、昭和に建てられた建築家の自邸として初めて国の重要文化財に指定されました。

No.5 宝積寺

寺伝によると724年、聖武天皇の勅願により行基菩薩が開基したと伝えます。

寺宝を多く有し、建造物では秀吉 「一夜の塔」と呼ばれる三重搭が重要文化財に、また美術工芸品では、本尊十一面観音菩薩立像、金剛力士像及び閻魔王と眷族像が重要文化財に指定されています。

No.6 観音寺

 

平安時代に宇多天皇の勅願で開山されました。

本堂横に聖天堂があり、江戸時代には現世利益を求めた大阪の商人の厚い信仰を受け、大いに隆盛しました。 豪商住友家も帰依し、立派な青銅製の灯篭を寄進しています。

境内は広く秋の紅葉、 春の桜が楽しめます。



No.7 山崎院跡

奈良時代の高僧行基は725年に大山崎に至り、淀川に山崎橋を架橋、その後、橋を管理し行基の教えを広める道場として731年に山崎院を建立しました。

1989年、1999年に行った発掘調査で、奈良時代の唐草文彩色壁画片など、院に係わる多くの遺物が出土しました。

No.8 陶板絵図「秀吉の道」① 

天王山の麓から山頂に至るハイキングコースは「秀吉の道」と名づけられ、天下取りの物語を描いた陶板絵図が6か所あります。

1か所目「本能寺の変」はアサヒグループ大山崎山荘美術館付近にあります。

ぜひ、美しい陶板を鑑賞しながら 天王山のハイキングを楽しんでください!

No.9 陶板絵図「秀吉の道」②

陶板絵図は日本画家の岩井弘さんの屏風絵図、解説文は堺屋太一さんによるものです。

陶板絵図の2か所目「秀吉の中国大返し」は、青木葉谷展望広場にあります。

展望広場は、桂川、宇治川、木津川の三川合流地点が見渡せ、晴れた日は、大阪平野が一望できます。



No.10 陶板絵図「秀吉の道」③④

陶板絵図の3か所目「頼みの諸将来たらず」、4か所目「天下分け目の天王山」は旗立松展望台付近にあります。

絵図は、両軍の北側から見下ろした構図で右側が羽柴方、左側が明智方です。

戦に破れた明智光秀は勝龍寺城(絵図の左下側)に逃げ込みました。

No.11 陶板絵図「秀吉の道」⑤

陶板絵図の5か所目「明智光秀の最期」は酒解神社付近にあります。

戦に敗れた明智光秀は勝龍寺城に逃げ込みます。

その夜、近江坂本城を目指して落ち延びようとしましたが、山科小栗栖にて、落ち武者狩りの竹槍に刺されて重傷を負い、自刃して果てました。

No.12 陶板絵図「秀吉の道」⑥

 陶板絵図の6か所目「秀吉の「天下人への道」はここからはじまった」は天王山山頂にあります。

秀吉は大坂を中心に経済面も発展させ、文化面でも茶道や囲碁・将棋など全国的な家元制度が芽生えました。

秀吉のきらびやかな天下は、ここからはじまりました。



No.13 旗立松展望台

山崎合戦にて、秀吉軍と光秀軍の主力は小泉川(大山崎ジャンクション付近)で激突しました。

秀吉はこの地のあった老松に千成瓢箪の旗印を揚げ、軍の士気を高めたと伝わり、現在の松は七代目です。

旗立松展望台からは、山崎合戦古戦場跡や京都市内が一望できます。

No.14 十七烈士の墓

禁門の変に敗れ、天王山中で自刃した真木和泉守以下十七名の眠る墓で天王山中腹にあります。

明治時代になり、彼らの尊王攘夷の行動が改めて見直され、彼らを顕彰するため、十七烈士の墓所が整備されました。

毎年10月21日には十七名の冥福を祈り招魂祭が行われます。

No.15 酒解神社

自玉手祭来酒解神社は、天王山山頂より約100m下ったところに位置し、創建は奈良時代にまで遡るといわれ、山崎地方で最も古い神社です。

本殿の手前に建つ神輿庫は鎌倉時代の建築で日本にある板倉式倉庫としては最古の例であり、国の重要文化財に指定されています。



No.16 天王山山頂・山崎城跡

  天王山は標高270.4mと低い山ですが、京都の出入り口にあたり、しばしば戦場となってきました。

山崎の合戦で勝利した秀吉は、天王山山頂に山崎城を築き、大山崎を城下町として保護しました。

現在も天守台、曲輪、土塁、食い違い虎口、石垣などが残存します。

No.17 大山崎町歴史資料館

JR山崎駅からは徒歩5分、阪急大山崎駅からは目と鼻の先です。

古代のコーナーでは、行基が架橋した山崎橋や、山崎院、中世のコーナーでは荏胡麻油生産で賑わった町の様子を紹介しています。

近世のコーナーでは、千利休ゆかりの茶室「待庵」を当時に近い形で複製した展示や、「山崎の合戦

」の映像解説があります。

No.18 霊泉連歌講跡碑 山崎宗鑑句碑

阪急大山崎駅から徒歩3分、JR山崎駅から徒歩2分の天王山登山口に石碑があります。

この地に隠棲した室町時代の武士・山崎宗鑑の句です。

俳句に長けていた宗鑑は、付近にあった霊泉庵で連歌の会を開催しました。

宗鑑を偲び松尾芭蕉も訪れたようです。



No.19 史跡大山崎瓦窯跡公園

大山崎瓦窯跡は8世紀末から9世紀前半に平安京造営に必要な瓦を生産した遺跡です。

平安京の瓦の生産体制は複数の大規模な生産地で構成されています。

大山崎瓦窯の他に、西加茂瓦窯群、栗栖野瓦窯、吉志部瓦窯が知られており、製作技術が共有されていました。

No.20 小倉神社

奈良時代創建と伝わる乙訓地方で最も古い神社のひとつ。

京都御所鬼門除で、正一位の社格を有しています。

山崎合戦の際に豊臣秀吉が戦勝祈願した神社で、天王山の登山口があり、人気のハイキングコースです。

本殿の裏に「小倉神社磐座、地磁波発生の処」の石碑があります。

No.21 円明教寺

平安時代の創建と伝わります。

鎌倉時代には西園寺公経がここを山荘とし、たびたび訪れました。

その後、娘婿の九条道家、道家の息子で一条家始祖となる実経に譲られ、天王山山麓は一条家ゆかりの地でした。

応仁の乱後は兵火により廃れ、今は鐘楼門と薬師堂が残るのみです。



No.22 境野1号墳(明智光秀本陣跡)

山崎の合戦で明智光秀が本陣をおいた「御坊塚」は、サントリー京都ビール工場の裏手、境野古墳群の境野1号墳と推定されています。

最近、恵解山古墳から大規模な深い濠や火縄銃の弾などが多数出土し、恵解山古墳が御坊塚の可能性が出てきています。

No.23 天王山夢ほたる公園

明智光秀と豊臣秀吉が激戦を交わした山崎合戦の地は、天王山のふもとを流れていた円明寺川(現在の小泉川)を挟んだ一帯で、現在は公園として整備されています。

公園には「天下分け目の天王山 山崎合戦古戦場」の石碑が建ち、

天王山を仰ぎ見ることができます。

No.24 大山崎の東黒門跡

江戸時代後期までの大山崎は、西国街道沿いに長細く続く集落で、東西に東黒門・西黒門を設け治安を守っていました。

山崎合戦では、秀吉軍の高山右近が東黒門を利用して陣取り、門を開けるように求めた光秀軍と小競り合いとなり、合戦が始まったと言われています。